不安だから僕は、書いていた
「書く」ということは、そこに伝えたい何かを秘めているんだ。ふと、そう思った。
書いて外に現すことで、何が出てくるかわからない。心に「秘宝」をしのばせてる感じ。
これを出すとみんながどんな感を抱くだろう。
あの人はどんな石を隠してるんだろう。
書いて見せることは、そういうワクワクとドキドキみたいなもの。
とはいえ書くことはむずかしいし、こわい。
できあがったあと、内側にあったものと形が変わってる気がする。なにか違う。
「あ、うまくできた」ということもある。
それでも「この程度のことしか考えていないのか」と人に思われてしまいそう。人から自分が見透かされそう。
これはきっとぼくだけじゃない。
みんなもそう。
ぼくもそうだ。
おもしろいことなんて言えない。思いつきもしない。
だけど書きたい。
うまくできない。
そう繰り返しているうちに、いやになる。
「どうして『書きたい』なんて思っていたんだろう」
そう思えてくる。
でも心のどこか片隅に「書きたい」思いはまだ残っていて、やりきれない気持ちを抱える。
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僕が「書きたい」と思ったのは、小学校低学年のころに書き始めた日記からだったんじゃないかと思う。
日記には好きなことをかける。
でも僕にはそれ以上の書く理由があった。
忘れることが怖かったからだ。
その日という一日は、その日でおわり。過ぎてしまえば、なんの欠片も残らない。あとから思い出そうと思っても思い出せない。
そんな恐怖があった。だから書いて残したい。それが日記を書いていた、いちばんの理由だった。
うれしかったできごと、感謝の気持ち、楽しかった思い出、貴重な体験、なんでもない一日。
ちゃんと書いておかないと、すごく不安だった。
「あとで思い出そうとしても、忘れたらもうおしまいなんだ」
今では忘れることなんてたくさんある。忘れないことのほうがきっと少ない。それもわかってきた。
でも、幼い当時の僕にとって、せっかくある今日を忘れることは、なによりの恐怖。なにかを「失う」ようですごく怖かった。底知れない恐怖だった。
あの人と居られるのも今だけなんだ。
特定のだれかじゃない。
その日にあった人や話した人。
心に残したい大事な人たち。
いつかあの人が死んじゃったら、今日のことが消えてなくなっちゃう。今日のあの人のことを思い出せる人も知っている人もいなくなる。
この思いは、僕を書くほうへ動かした。
2時間も3時間も、時の流れやそのときの思考、動き、感情の起伏、しぐさ、やり取りも、こと細かく一生懸命に書いた。
書いておけば、あとからその日が写真のように、映像のように思い出せた。それが良かった。安心した。
「この日この場所であの人が僕にこう言ったんだ」
書いていたことを思い出すと、忘れたと思っていた記憶が脳内で鮮明に見え始める。映像やスライドのようによみがえる。
このとき「書いていてよかった」と思う。
僕にとって日記を書くことは、瞬間を忘れないように宝箱にしまっておくような作業。
当時の気持ちを忘れたくない。
そう思ったときに、ぼくは書いた。
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最近、こんな気持ちをなくしていた。
昔はノートに紙で書いていたけど、いまはこんな形でブログに書いたりTwitterを使ったりして、「公開」する。
これは僕のひとつの挑戦だ。
公開するのはやっぱり怖さがある。不安になる。どう思われるかな、と。
だから公開する。
いいと思っているものを外に出してみる。
「これどうかな」
自分にはなかなか輝いて見える、内側にあったもの。置いておくと腐って溶けて消えてしまう。せっかく生まれたこの思い、記憶、今日のできごと。消えてほしくない。だから外に出す。
どうかな。
みんなが教えてくれる。
「うーん微妙」
また見せる。
「もうちょい」
いいもの見つけた。
これどうですか。
いいもの見つけたんだ。
これどうかな。
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実はみんなそうなのかもしれない。
内側にあるものを形にしたくて、
形にしてつくってみるけど、
人に見せるのが怖くて、自分の押入れにしまってしまう。
でも見せないと生きた心地がしなくて不満で、
見せると不安でいっぱいになる。でも生きてる感じはする。
不安と羞恥心よりも、生きた心地のほうがずっと輝いてて、外に出したかったのは、実はつくったものじゃなくて、存在証明のほうだったりして。
できあがったそれじゃなくて、生きてましたっていうことだったりして。
「はじめまして。こういうものです。生きてます」って。